コラム
Column

2018.03.05 Mon

【第2週】遠い国での1年間 – 僕のドイツ交換留学

バンクナンバー

【第1週】はじめに/きっかけと行き先の決定/準備

4.OSK

OSKのみんなと
 YFUでドイツに留学すると、基本的に最初の3週間は OSK(オーエスカー)と言ってオリエンテーションと語学研修の期間になっています。ドイツ中のいろいろな場所でこれが開かれるのですが、僕の場合はドイツ北部の港町、Hamburg(ハンブルク)郊外の小さな町でこの研修を受けることになりました。期間中は、年間のホストファミリーとは別の3週間だけのホストファミリーと過ごします。この間はホストファミリーとも日本人以外のYFU生とも、基本的に英語でコミュニケーションをとっていました。今考えれば、よくもまあ僕の拙い英語でなんとかなったものだと驚きますが。
 僕のこのOSKファミリーは30代のお父さん(Peter、ペーター)とお母さん(Claudia、クラウディア)、それから1歳になる男の子(Jonas、ヨーナス)の3人家族でした。そしてモンゴルから来た別のYFU男子留学生(Bilguudei、ビルグーデイ)も一緒にこの家族のもとで過ごしたので、合計5人でした。このOSKファミリーにもとてもよくしていただいて、すごく仲良くなりました。後述するMagdeburg(マクデブルク)のホストファミリーとはまた少し違った雰囲気でありながら、親しみやすさと快活さに溢れる人たちでした。Bilguudeiは首都ウランバートルでアメリカンスクールに通っているそうで、僕とは違って英語がペラペラに話せますし、頭のいいだろうことも見てとれる人でした。Bilguudeiも僕もJonasとはとても仲良くなって、一緒によく遊びました。
 僕たちのOSKファミリーは欧州最大と言われるHamburgの繁華街を夜中に歩く、なんてわけのわからないツアーも大喜びで企画してくれて、それはそれで面白かったのですが、僕にとって忘れ難いのは、近くのBuxtehude(ブクステフーデ)という昔のハンザ同盟の町を見に行った時のことです。小さい町なのですがまさに北ドイツという雰囲気があり、生活の歴史の美しさとでもいうのでしょうか、僕には大きなお城よりもよほど美しく思えて本当に感慨深かったです。また、こうしてとてもお世話になったOSKファミリーにはどうしてももう一度会いたいと思い、僕は帰国1ヶ月前にも一度Hamburgに遊びに行きました。
 OSKの教室には日本人9名とそれ以外の国から来た10名がいて、それぞれ別のクラスで語学研修とオリエンテーションの2つのクラスを受けました。語学研修はドイツ人の先生が全てドイツ語で行うのに対して、オリエンテーションクラスは日本人の先生が日本語で行ってくださいました。全体的にリラックスした雰囲気で、楽しく勉強していくという感じです。午後はみんなでプールに行ったりサッカーをしてみたり、とても楽しく過ごしました。
Buxtehude にて
 とはいえ、僕はこの時自分のドイツ語力のなさに焦りを感じていましたから、遊んでいたばかりではなく持ってきた文法問題集を自分で進めていました。ドイツ語は動詞の変化形も英語と比べて多く、定冠詞(英語の”the”)にも4種類(男性・女性・中性・複数)もあり、しかもそれぞれが4つの格変化を持ちます。そしてこれらドイツ語文法の基礎中の基礎は、当然ながら文法全体において非常に重要な役割を果たしています。定冠詞についてひとつ例文を挙げますと、こんな感じです。”Die, die die rote Tasche gekauft hat, ist meine Tante.(その赤いカバンを買った女性は/が私のおばです)”というこの一文、冒頭に女性名詞の定冠詞”die”が3回連続で登場しています。英語の”the”が3回連続しているのを想像してみたら、わけがわからなくなることでしょう。とにかく、ドイツ語において定冠詞は重大な役割を果たしているのです。ですから、これらを学ばずにその先を理解することは不可能と言っていいわけで、辞書だけめくってもほとんど何もわからないはずです。いや、辞書すら引けないでしょう。しかし、逆に言えば、基礎を身につけていれば新たな文法に出会った時も感覚的に予測することができます。(僕はドイツ語ははっきりとした法則性を持つ言語だと思っています。)OSKの3週間、たったの短い期間と思うかもしれませんが、他にチャンスのなかった僕にしてみれば立派な勉強のできる期間になりました。そうでなくとも、せっかくのOSKを無駄にする手はありません。YFUでドイツに行こうという人にはこの期間を最大限に活用してもらいたいと思います。
 それから、OSKの日本人の先生がとても面白い人で、自身もYFUでドイツ留学をしたのちにドイツの大学に進んで物理を学び、大学卒業後はなんと日本まで 自転車で帰って来たというのです。しかもその後にフランスの大学院に進み、今は研究者としてまたドイツに住んでいるということでした。参考までに、6ヶ国語で書かれた彼のブログのうちの日本語版を紹介します。(http://www.sams-studio.com/indexJP.php)
 そんなふうにして心配事や不安のあまりないOSKの3週間はとても早く過ぎ去ってしまい、9月3日、いよいよ僕は1年間のホストファミリーのもとへ、Magdeburgへ行きました。

5.Magdeburg

9月、塔から見た Magdeburg
 Magdeburgは中部ドイツ、Sachsen-Anhalt(ザクセン・アンハルト)州の首都です。Elbe(エルベ)川の流れる、長い歴史のある街で、Dom(ドーム)と呼ばれる中部ドイツ最大のプロテスタント教会が建っています。また、戦後の東西分断の40数年間、つい30年弱前の東西ドイツ統合までは社会主義国家・東ドイツに属していました。
 Magdeburgのこのホストファミリーとの出会いは、感謝してもしきれないほど幸せなものです。お父さん (Jörg、ヨルグ)、お母さん(Helgard、ヘルガート)、お姉さん(Mathilde、マティルデ)とお兄さん(Ludwig、ルートゥウィッヒ)の4人家族で、Mathildeは2年前にYFUで合衆国に留学に行った経験があり、Ludwigはちょうど僕と入れ違いでやはり合衆国に留学していました。僕はLudwigの部屋を貸していただきました。MathildeがLeipzig(ライプツィヒ)という別の街に住みそこの大学に通っているため、週末や休みの期間以外は、Jörg、Helgardと3人での生活でした。Jörgは生物学者、Helgardは州政府関係の仕事をしていて、基本的にふたりともいつも(多くの日本人と比べて圧倒的に)早く帰宅していました。ふたりとも50代後半とOSKファミリーと比べれば年上だからでしょうか、とても素朴で落ち着いた雰囲気のある家族で、みんな本当に親切で優しい人たちでした。
 ホストファミリーとは色々な場面でお互いにとても沢山の会話をしました。帰宅したらお茶かコーヒーを淹れ、暖かい季節は庭に腰掛け、寒ければリビングで、毎日のように色んなことを話しました。これには時間がかかりますが、そうして互いに互いのことを時間をかけて深く知り合うことで、何にも代えがたい強い絆が生まれました。
 例えば、彼らが大学生だった1989年にベルリンの壁が崩壊したのですが、その時のこともそれ以前のことも、本当に沢山聞きました。今のドイツと日本とは、社会の大きなあり方は民主主義、資本主義と言っていいはずで、そういう意味では実はそこに大きな違いはありません。街を歩けばカラフルですし、教会に通っても学校から追放されることはありませんが、職人の作る10円のパンはどこにも売ってません。それに対して、東独には僕たちの生活する社会とは全く違ったものがあったわけです。「異文化」という言葉が正しいかわかりませんが、とにかく違っていた。そんな時代の話を聞くのは、本当に興味深いものです。
 話が少しそれますが、僕の見た限り、ドイツには東西で今も少しの違いが残っています。それは必ずしも経済的な格差ということだけではありません。Magdeburgを例にあげれば、第2次大戦中に壊滅的な爆撃を受けたというだけでなく、その後40年間の分断のうちにも宗教を嫌う東独政府によって教会が破壊されています。その上さらに、東独時代40年間の灰色の個人商店も工場も、東独国家の崩壊・消滅と同時に西ドイツの強大な工業や産業に呑み込まれました。ですから街を歩いても、美しいとはとても言いがたいような巨大な商業施設ばかりが目につくのです。弾圧の中の灰色の街並みが美しいというのではありませんが、強大なもの効率的なものなら文化的かというと、そうでもないと思います。壁の崩壊後はパンがまずくなったと言います。東独時代には残っていた職人の作る店ごとの味は、工場生産とスーパーなどの大型で効率的な売り方に破壊されてしまったのです。また、東独にはトラバントというプラスチック製の大衆車がありました。現在の日本人としては信じがたい話ですが、注文を申請してから これを手に入るまでに10年くらいは平気で待たされたというのです。もちろん、こんなのはとても便利とは言えないわけですが、逆に言えば大量生産・大量消費の私たちの生活に比べてそれだけ資源を大切にし、誰もが身の回りのものを修理して生活していたのです。おそらくアメリカの記事だと思います、トラバントを馬鹿にして「これだから東独は崩壊したんだ」と書いているのを見たことがありますが、的外れでしょう。そんなことが国を動かす力になると思っているのは大量消費社会の彼らの感覚であって、東独の本当の問題はその厳しい弾圧 (シュタージ、と検索してみてください)と民衆に政治参加の機会のなかったことであり、それこそが民衆を動かしたのです。等々、全く違う社会のあり方について話を聞くということは、単純にどちらが良い悪いではなく、これまで気づくことがなかった価値観を学ぶことにもなりました。
 もちろん、僕が話すのを彼らが聞いてくれることもよくありました。家族のこと、学校のこと、日本語のこと、東京のこと、話題は色々です。彼らはそれを本当に面白そうに聞いてくれて、とても嬉しく感じました。Helgardのご両親も何度も遊びに来てくれて、その度に僕の話にとても興味を示してくれました。
9月3日、Magdeburg に到着して両方のホストファミリーと
 また、そうして会話の中でお互いを共有していくうちに、11月のある日、彼らのある家族史を知りました。キッチンの真ん中に小さな女の子がとても楽しそうに遊んでいる写真がかかっていて僕も毎日目にしていたのですが、僕はこれをMathildeだろうと思い、すごくいい写真だね、とHelgardに言ったのです。そうしたらHelgardは僕の方に振り返って、ありがとう、と言って笑いました。それが何か普段と違うように思えて僕は少し不思議に感じていたのですが、そのしばらく後で不意にHelgardが僕に「あの子はMathildeじゃないよ。Helene(ヘレーネ)という子で、Mathildeの生まれた年に亡くなってしまったのよ」と言ったのです。その時は驚きましたが、今思えば、涙を流しながらHelgardがその話をしてくれたことは、1年のうちでも最も大切な瞬間のひとつでした。
 逆に、僕が彼らにしか話さなかったようなこともあるはずです。繕わずに正直に対話することで、ゆっくりと信頼を深め合えるのだと学びました。
 多くの場合、日曜日にはDomの礼拝に参加しました。ホストファミリーが信仰を持つ人で、一緒に参加してもいいと言ってくださるなら、ぜひ参加したらいいと思います。信仰は社会の文化の深い部分であり、個人のとても精神的な活動ですから、学ぶことは多いはずです。Hauskreis(ハウスクライス、Hausは家でKreisは円の意)というキリスト教徒の7、8家族の集まりがあり、JörgとHelgardもこれに参加していました。普通はDomならDomの信徒だけで形成されていて無論プロテスタントとカトリックは別々になるのですが、このHauskreisにはMagdeburgから両派の家族が参加していました。月に一度、当番のように交代して各家で集まるので、僕もたまについて行き、聖書についてなど非常に興味深く熱い議論を聞くことができました。彼らは十数年来の友人で、個人的な相談をするにも互いに最大の信頼を置きあっていました。こんな友人の集まりをもって生きていくのは素晴らしいだろうなと、感動しました。
2月、スペインの Mulhacén(ムラセン)山中腹から地中 海側を望む
 また、自然の中にいることを愛する家族で、登山や長距離走や釣りなど共通の趣味を一緒に楽しむことができました。ところで、誰の役に立つ情報かは想像もつきませんが、釣りについて、ドイツでは免許が必須だということを書いておきます。これなしに釣りをすることはできません。僕も免許を貰いましたが、普通に免許をもらうためには30時間の講習と筆記および実技試験を受けなければありません。まさか1年間しか滞在しない留学生がそんなことをできるわけがなく、グレーゾーンの裏技というか冗談のような経緯があるのですが、ええ、これについては想像にお任せします。
 僕はこのホストファミリーに本当によくしていただいて温かい時間を過ごすことができましたし、OSKファミリーともうまくいきました。ホストチェンジをすることはありませんでした。けれども、ホストチェンジが何か悪いことだとか、失敗だとか、そういったことは決してありません。僕はたまたま非常に運が良かっただけで、相性の合う合わないということも必ずあります。ホストチェンジ後にとてもうまくいった、という話はよく聞きます。ところで、BilguudeiはOSK中は快活でむしろ元気すぎるくらいだった(笑)のに、OSK後の新しいホストファミリーと合わずにずいぶん疲れてしまったらしく、ホストチェンジをして11月か12月にOSKファミリーのところへ戻って行きました。他にももう一人、OSKの仲間のロシア人でそうしてHamburgに戻った人がいました。
 また、Jörgの同僚のひとりで日本人女性と結婚した方がいて、Magdeburg市内に住んでいました。その日本人の夫人がChisatoさんという方で、頻繁ではなかったにしろ、たまに遊びに行ったり、ホストファミリーが夫妻をお招きしたり、後述する「書道教室」(もどき)のために筆をお借りしたりと、お世話になりました。僕の場合、他にYFU生以外の日本人との交流は全くなかったのですが、偶然にもこうして助けていただけたる交流があったことはとてもありがたく思います。

>次号へ続く(3月12日の掲載を予定しています。)

本連載はYFU第59期(2017年帰国)ドイツ派遣 佐原慈大さん が、帰国後に自身の体験を綴った体験記を纏めたものです。無許可での転載を禁止します。