コラム
Column

2018.04.09 Mon

【第7週】遠い国での1年間 – 僕のドイツ交換留学

バンクナンバー

【第1週】はじめに/きっかけと行き先の決定/準備
【第2週】OSK/Magdeburg
【第3週】学校/親友、Amin
【第4週】スポーツクラブとマラソン大会/怪我/旅行等
【第5週】Freie Schule/言語
【第6週】文化

14.帰国

2月、スペインにて。
 1年間はものすごい密度のままあっという間に過ぎ去ってしまって、帰国がやってきました。当日の朝まで「帰国」という状況が理解できなかったことをよく覚えています。JörgやHelgardやMathildeやAminとの別れは、本当に辛く感じました。空港行の電車に乗る時、Helgardが促してくれなかったら立ち上がれなかったと思います。あっという間の、けれど全てを凝縮したようなお別れでした。
 そしてYFUでも「再適応」と言って何度も聞かされることですが、帰国後もそう簡単ではありません。僕もなかなか落ち着けず、文化祭と中間試験の終わった今になってやっと慣れたと感じるくらいです。忘れないでほしい大切なことは「どちらが良いか悪いかではない」ということです。僕の場合、ドイツではそんな問題はなかったのに帰国して両親を見たら無意識のうちに「比べている」自分がいて、少し苦労しました。今考えると、留学生としての生活が穏やかでとても楽しかったことの一時的な反動だったと思います。しかし東京よりもMagdeburg郊外の家のほうがゆとりがあるのは当たり前ですし、ドイツと比べて東京の生活が目まぐるしく感じられるのも、仕方ありません。そう単純に良い悪いでは決められないことです。留学先でも同じだったように、この場所でまたできるだけ楽しく充実した生活を送ろうと前向きに適応する努力をするしかありません。今の僕はとても楽しく充実して感じます。
 しかし自然環境の差異については、心だけでなく体が確かに気付いて反応していたので、比べないといっても難しいものです。人混みが苦手になったというだけではありません。帰国翌日に井の頭公園のあたりを1時間ジョギングしていたら、走っている間はいいのですが、走り終わった途端に咳が出始め、いつまでたっても止まりませんでした。本当に驚き、いきなり喘息になったかと本気で心配したほどでした。幸いにしてその後は同じ症状が出たことはありませんが、ドイツに行ってすぐの頃に同じような経験はしていませんので、間違いなく東京の空気の悪さが原因だったのだろうと思います。
 冗談のような話ですが、僕の場合は、帰国直後は会話中に言葉がうまく出てこないと感じることさえありました。日本語を忘れたというよりは、むしろ日本人間のコミュニケーションのあり方が他人のものに思えてしまって、その中に飛び込みきれないような感覚でした。「今自分がどこにいるのかよくわからない」とでも言うのでしょうか、生活全体にそんな感じが漂っていて心が整理できていなかったので、留学中のことを聞かれてもうまく答えられませんでした。しかし、1・2週間前までの生活の記憶を「思い出」として要約して語れてしまってはむしろ軽薄なくらいであり、帰国直後に困惑するのは当然だと僕は思います。ところで、これも信じてもらえるかわかりませんが、帰国直前に学校の昼休みに食べに行った中華料理屋で、焼きそばを食べるのにとても久しぶりに箸を使ってみたら、手のひらが筋肉痛になってしまいました。そしてそれをJörgとHelgardに話したところ、おかしなことにふたりとも大喜びして笑っていました。
17年12月、京都にて留学生のファビアンと
 ちなみに、我が家では僕の帰国した夏休みの終わりに初めてYFUのスイス人留学生を迎え、楽しく一緒に生活しています。タイミングは少し悩ましかったのですが、それでもやはり僕たちもYFUの一員として留学生を迎えたいと考えました。今度は入れ替わってホストファミリーとして他の人の留学生活の一部になってみると、自分の留学も振り返りながら「ああ、こういう留学生活もあるんだなあ」と感じ、自分のものだけではない「交換留学」がみえてきます。ホストファミリーになるということも、自分が留学に出るよりは身近でありながら特異で、とても充実した体験だと思います。

15.交換留学について

6月、スウェーデン・Sarek にて
 出発前は概念でしかなかったYFUの理念が、自分自身の留学の1年を振り返ってみると、多少は具体的に理解できるようになったと感じています。僕は、その異文化相互理解の根幹にあるのは異国の地で家族を離れて「生活する」という厳しさ、難しさではないかと思います。そして、そういった厳しさのないまま「留学」を終えてしまう場合もあるのではないでしょうか。
 帰国の日は、中間セミナーなどで会った何人かを除けば、OSK以来または出発日以来会わなかったYFUの日本人ドイツ派遣生との再会の日でもありました。1年間、離れてはいても同じ苦労を味わい、けれども振り返ってその時間の密度の濃さと自身の成長をたしかに認め、いま互いの健康、幸運、努力、そしてその成果をはっきりと確かめ、心から喜びあえる仲間。そして、この地での生活の終わりへの寂しさや十数時間後に日本で新たに始まる生活への期待と不安を共有できる仲間。そのはずでした。けれども、少なくともその日の僕の心には、そんな「仲間」の姿はほとんど映りませんでした。1年ぶりに同郷のみんなに囲まれたばかりだというのに、僕は非常に寂しい居心地の悪さを感じ、自分がどこにいて何をしているのかわからないような感覚になりました。
 空港で日本人が集まり始めた途端、わざわざ送りに来てくれたホストファミリーには目もくれずに友達に抱きつき、日本語で大きな声で話し始める人がいました。日本人と集まって日本語で話し、携帯で記念写真を撮りまくっている人もいました。お別れを前にしながら寂しそうな表情よりも、むしろ「やっと日本に帰れる」喜びで溢れている。そんな風に見えました。
 もちろん、同期の全員がそうだったというのではなくて、その時は目立たなくともそうでなかった人も確かにいたのだろうと思います。半日電車に乗っていただけだというのにその時の僕はとても疲れていましたし、みんなきっと大なり小なり同じような状態だったと思います。だから帰国後半年も経ってその時のことを思い出しても、客観的とは言い難い記憶になっています。それに僕たち全員にとってあまりにも特殊な時の特殊な空間だったから起こってしまったことであるし、僕も決して完璧な態度だったとは言えませんから、誰かを非難しているわけではありません。
 それでも、おそらく日本からの沢山の留学生のうち一部の人たちは、本当にその地に身を置けてはいなかったのではないかと思います。帰国前のセミナーで、色んな国からの留学生に、「君は日本人なのにドイツ語がうまいね」とわざわざ言われたことも、衝撃的で忘れがたい記憶です。悔しくも思うし、なんでそういうことになってしまうのか不思議でもあります。言語系統の問題もあるでしょうが、きっとそれだけではないはずです。確かにその地で1年間を過ごしたことは同じだけれども、そこで「生きた」のでも、その地で「生活した」のでもなく、むしろ長期滞在型の旅行であった。そんな人もいたのではないでしょうか。LINE で家族や友達と連絡を取り続け、つまんないしドイツ語で訳の分からない授業やホストファミリーの話なんてあまり聞かずに、由来も知らない場所でとりあえずSNS「映え」しそうな写真をたくさん撮って、映画と音楽に満たされて往復した、といったように。実際のところ、本当にそういう「留学」を過ごした、覚悟のない「留学生」も一部にはいたのではないでしょうか。その地で1年間「生きる」という覚悟。「生活する」という覚悟。切実さ。
 例えば Amin の切実さを想像してみてください。アフガニスタンは「戦闘地域ではない」という理由でドイツ国外に出る許可が下りなかったために修学旅行で一緒にプラハに行くことが出来ず、それでもそんな理不尽の中で切実に生きようとしている人がいることを、少し思い出してみてください。それは交換留学というものを超えた厳しい世界であって、僕たち「留学生」が全く同じ切実さを生きることは不可能だと思います。決して、彼の切迫した状況がいいことだと言っているのでもありません。けれどもそんな人がいて、(異国にひとりで)生活するということそのものがそんな切実さを抱えたものであると気付くと、交換留学の時間も少し違って見えるのではないでしょうか。つくづく、Aminとの出会いは僕にとって本当に重要な転換点になりました。
 僕たちは物質的に非常に恵まれた生活を送る一方で、切実な生命からどんどん遠ざかっているのかもしれません。どこに行っても瞬時に誰とでも連絡がとれる。自分で頑張らなくても何も困らないから、必死にならないまま、なれないまま、生きていく。
 そういえば、フランスに住んでいるOSKの日本人先生のSamに会いに、冬にOSKの仲間が何人かでフランスに遊びに行きました。僕は残念ながら日程的に参加できなかったのですが、パリに行った彼らは、Samは乗り気でなかったにも関わらず、どうしてもと主張してディズニーランドに入ったと聞きました。人々の生活、連続する切実な生命が折り重なり、どこまでも深く美しくなり続けるヨーロッパの古都にいながら、そういった歴史への敬意を忘れて造られた「夢の国」に入っていく。僕にはそんな風に思えてしまいます。そして、もしもディズニーランドに行くことが「留学」の目的であったら、それは異文化相互理解とは言えないのではないかと考えます。
 生きるために必死で言葉を理解し、生きる場所を探す、そういった苦労こそが高校生交換留学の根幹なのだと思います。YFUドイツの事務局の方は、「昔の学生はもっと必死で言語を勉強したから、それだけ上手に話せるようになった」と言っていました。携帯電話やSNSは交換留学の在り方を大きく変えている一つの要因でしょうし、うまくバランスを取る必要があると思います。
 とはいえ、僕がこうして交換留学を経験し得たのも、YFUの精神が生き続けているからです。YFUの出発前オリエンテーションなどでお話ししてくださった先輩方は、切実で誠実な交換留学を経て、僕たちに助言してくださいました。少なくとも僕はそう信じています。地区委員の方々のおっしゃることも、YFUオフィスから配布される資料も、本当に真剣で大切なことばかりです。ホストファミリーも含めてボランティアで運営されるYFUは、そういう方々がいるからこそ成り立っているのであって、その本質を繋いでいかなければならないのは僕たち自身です。大切なのはもっともらしく見せることではなく、誠実に、僕たち自身の「生きた」1年間の経験を共有し、これからのYFUを支えていくことだと思います。

16.終わりに

クリスマス、Jörg と切ってきたクリスマスツリーの前で
 僕は留学前の中3の秋に日記を書き始めて、今でも続けています。とても簡単な形式で、内容も文量も日によって大きく異なりますが、とにかく毎日書き続けています。そうして寝る前に日記を書いていると、その日の、その時の自分の気持ちが落ち着いて見えてきます。記録のためだけではなく、書いていることで自分が成長できたと思っています。もし日記を書いていなかったらホストファミリーと喧嘩していただろうと思う場面もあります。留学生全員が書かなければならないとは決して思いませんが、書きたいと思う人には、ぜひ始めることをおすすめします。
留学の1年間を通して僕が得た何よりの宝はおそらく、出会った人々とのつながりと、それが生まれるまでの経験です。全く違う背景をもつ、それまで見たこともなかった人たちと1年間心の深くで触れ合い、そして強い絆ができたという経験をしたことは、何かすごく前向きに僕を励ましてくれる、そんな力になってくれそうです。
 「交換留学が異文化相互理解と世界平和につながる」なんて高尚なYFUの理念を聞いても、半信半疑の人は少なくないと思います。帰国の日、Helgardが「Shige(僕)は大きなことを成し遂げた。将校を父親に持つ私の母はとても保守的で、外国人と話すことなんて考えられなかったぐらいなのに、Shigeと喜んで話をして、この間Aminに会った時さえとても楽しそうに話していた。これは小さなことだけど、とても大切なことだって気が付いた」と言ってくれたのを僕は忘れられません。Helgardは、ひとりの交換留学生としての僕に、はっきりと答えてくれました。たとえほんの少しだけだとしても、確か に世界につながりがうまれたのだと。そしてそれらがたくさん集まれば、いつか世界中に大きな絆ができうるのだと。
 最後になりましたが、両親・ホストファミリー・YFUのみなさま・両国の先生方・友人など、とても多くの方々に支えていただけたことで、貴重な機会をもらい、素晴らしい時間を過ごすことができました。学んだことをこれからしっかりと活かしていきます。本当にありがとうございました。

>おわり

本連載はYFU第59期(2017年帰国)ドイツ派遣 佐原慈大さん が、帰国後に自身の体験を綴った体験記を纏めたものです。無許可での転載を禁止します。