コラム
Column

2018.03.19 Mon

【第4週】遠い国での1年間 – 僕のドイツ交換留学

バンクナンバー

【第1週】はじめに/きっかけと行き先の決定/準備
【第2週】OSK/Magdeburg
【第3週】学校/親友、Amin

8.スポーツクラブとマラソン大会

10月、ベルリンでの10km大会の後、Jörg と Helgard
 ドイツの学校には基本的にクラブがなく、僕は地域のスポーツクラブSCM(エスツェーエム)に週4日で通うことにしました。週4というのは大抵のドイツ人の感覚にすれば「めちゃ多い」らしく、みんなに驚かれました。たしかに怪我で練習できない時期や他の課題に追われて通えなかったこともありましたが、走ることをきちんと続けてよかったと思っています。なにも陸上に限らず、自分のアイデンティティと言えるものを日常的に続けることは自信にもなります。もちろん、単なる気分転換としてもジョギングは僕にとっては最高の手段です。
SCMメンバーとして、あるいはSCMとは別にホストファミリーと、年間でいくつかの大会に出場しました。市内マラソン大会や、欧州最大と言われるThüringen(チューリンゲン)州のトレラン大会でハーフマラソンを走った時の気持ちよさは、素晴らしいものでした。
 ところで、これは陸上に限らないのですが、少なくとも僕の身の回りのドイツ人は、「頑張れ」という言葉を全く口にしませんでした。日本では誰もが毎日のように「頑張れ」と言うのに対して、興味深い文化の違いだと思います。もちろん、努力しなければ前に進めませんし、必死でやるしかないようなこともあります。根性論的に言えば日本人・日本社会は優秀かもしれません。しかし努力云々ではないことも中にはあります。そして、状況を良くするための判断を冷静にできるということは、破滅的に頑張り続けるのと比べて、決して簡単ではないでしょう。「頑張れ」という言葉は誰かを前に進めたり支えたりすることもあるに違いないでしょうが、場合によっては冷静さを失わせる暴力的な言葉にもなりうるかもしれません。それがどんなものか、僕ら日本人は容易に身近な例を挙げられるから怖いものです。僕自身も冷静さに欠けた判断をしようとすることがあり、その度にJörgとHelgardが止めてくれて、僕も根性論的な何かに憑かれていたのかもしれないと気付きました。例えば、睡眠時間を出来るだけ長く取り、安定させようと努力するようになりました。そういった意味で、ドイツでの1年間で僕は日本での非常に追い込まれる生活から一度抜け出し、落ち着きのある生活を過ごすことができました。本当に貴重な時間でした。

9.怪我

4月、Sächsische-Schweiz(ザクセンのスイス)にて
 僕は中3の秋に肩を一度脱臼したことがあり、それが癖になってしまって、出発前にすでに計3回肩を外していました。肩を外すとどんな風になるか、外したことがない人にはちょっと想像できないのではないでしょうか。僕もそうでした。ところが面白いもので、初めての時にも「外れた」と確信しました。経験者からすると「外れる」という表現はまさに的確で、ちなみにドイツ語の動詞もほとんど同様に”auskugeln”(“aus”は「外に」、”Kugel”は「球」)と言います。釣りの免許と同じくらい実用的な知識ですので、ぜひ覚えておくといいでしょう。どんな馬鹿をやってそう何度も外したかというのはここでは省略することにします。文化祭の日に初めて外して、救急車を呼ばれてしまいましたからね…。しかし実際に外した時にはふざけたことは言っていられません。信じられないくらい痛いのです。しかも、癖になってしまう前は、医者に「自分で入れて失敗するのが怖いから、外れたらそのままの状態で来い」と言われていたので、つまり激痛のまま1時間や2時間は必ず待たされたのでした。ほんの数秒で元に戻すことができて、そうしたら瞬時に痛みがなくなるというのに…。
 絶対に外すなと親に言われていて、自分でももちろんそのつもりで注意していたはずだったのですが、なんとドイツでも外しました。大事件でしたし、僕の1年間にずっとつきまとった大問題でした。ドイツで最初に外したのはDomgymnasiumに通い始めて3日目(いいですか、3日目ですよ、3日目!)の、初めての(!)体育の授業でした。後になって考えればどうしたって見学するべきだったのに、砲丸投げを一緒にやってしまったのでした。先生の説明もさっぱりわからない中で本当に緊張していたらしく、「どうもテストらしいぞ」なんて思ってしまい、冷静な判断ができませんでした。今考えるとひどい話ですが、先生に「授業が終わるまで待てるか」と聞かれた僕は「はい」と答えてしまい、授業が終わってからやっと呼ばれた救急車を、付き添ってくれた親切なクラスメイトと待ちました。病院に着いてから、待たされるわ待たされるわ、電話で 話を聞いて駆けつけてくれたHelgard曰く、その時の僕は本当に青い顔をして病院の廊下のキャスター付きベッドに座りこんでいたそうです。
 この時は本当に多くの方に心配をかけ、大変な騒ぎでした。癖になってしまっていましたから、その後もなかなか大変でした。山に行くにも走るにも、1年中忘れることの許されなかった、「番狂わせ」とも言うべき難敵でした。僕はかなり悪い例ですが、実際に生活するのですから、そういうことも起こりうるということです。ちなみに帰国後に手術を受け、もう外れることはないはず(!)です。

10.旅行等

12月、Harz(ハルツ)山脈で Jörg と
 僕は幸運なことに、留学中の1年間でドイツ国内、そしてヨーロッパの非常に多くのものを体験する機会に恵まれました。全て書き出してみると、北部のGroßmenow(グロッスメノゥ)という小さな村、スペイン、München(ミュンヘン)、ポーランドのAuschwitz(アウシュヴィッツ)強制収容所跡、Weimar(ワイマール)、Dresden(ドレスデン)、Meißen(マイセン)、チェコのプラハ、スウェーデンに行きました。どれほど遊んでいたのかと疑われそうですが、ホストファミリーとの旅行だったりYFUのセミナーが行われたり学年の旅行だったりで、色々な場所に行く機会を得たのです。Münchenではひとりで美術館を5つもまわったりと、それぞれとても充実していましたが全てについてここには書ききれませんから、とりわけ特別ないくつかについてのみ少しだけ述べようと思います。
 YFUドイツは冬・春頃に何種類かの「文化旅行」を用意していて、そのひとつにAuschwitz(ポーランドに置かれた「ユダヤ人絶滅」を目的とした強制収容所で、110万人が殺されたとされる)に行くコースがありました。このコースだけは「文化旅行」とはなかなか言いがたい、とても難しいテーマをかなり真剣に考えようとするコースでし た。YFU留学生だけでなく、HamburgのあるGymnasiumの歴史の先生や11年生10人程も参加して、1週間近くの時間をとって現地を見学し、話を聞き、意見を交換し合いました。ドイツ人、アメリカ人、インド人、メキシコ人、あるいは日本人といった様々な国の高校生が、ホロコーストについて深く考え話し合うというのは、なかなかない機 会です。難しいテーマで、精神的にもとても苦しく疲れるのですが、非常に有意義な1週間になりました。しかし僕の他に何人もいた日本人留学生の多くがなぜか無言で議論に参加しようとしないので、それには驚き、不思議に感じました。また収容所跡を実際に歩いていて、 例えば有名な“Arbeit macht frei(働けば自由になる)” の門などは、何か新たな強い印象を受けたというよりは、すでに知っていた情報を再確認しているようにも感じられてしまいました。むしろ当時の髪の毛やカバンの山や、「政治犯」としてAuschwitzを経験したポーランド人画家(Marian Kolodziej)の展示などに強烈な印象を受けました。これらを見つめることは耐えがたいほど苦しいものでした。強制収容所の見学に行き、もちろんそこはとても苦しい空間なのですが、ただその跡を歩くよりも、画家の個人的記憶とそれを見つめる彼自身が描かれた絵や、他の仲間と対話した時間のほうが僕にとってはテーマについて深める力を持っていたのです。教科書に載っている抽象的な数字ではなく、そういった具体的・個人的なものこそが非常に大きな重みをもっていました。しかし一方で、パッと見てわかるホラー映画のような「残酷」なものを予想して強制収容所跡に行くべきではありません。単純に残酷な情報は、インターネットで探した方が見つかります。例えば『シンドラーのリスト』という映画は、ホロコーストを主題にした映画としては流れる血の量は少ないと思いますが、こわくないのでは決してありません。血を流さなくてもこわいものがあり、間違いなくそれこそを伝えようとしているからです。とにかく、ホロコーストは決して忘れてはならない記憶であり、誰にとってもこの旅行で終わりにできる課題ではありませんでした。
6月、スウェーデン・Sarek にて
 帰国の直前に行ったスウェーデンも特別でした。南部の都市観光ではなく、本当に北の北の北極圏で、ホストファミリーと11日間の登山旅行に出たのです。「ヨーロッパ最後の原生の自然」とも言われるSarekという地域で、道も目印もないところを1週間以上、トナカイ以外誰にも会うことなく、テント泊で歩きました。夏の北極圏は白夜ですから、日も沈みません。僕もホストファミリーもそれなりの登山経験があるから可能だった、特別な体験でした。この時はJörgとHelgardだけでなく、Helgardのお姉さんのElke(エルケ、僕からした伯母さん)との計4人パーティーでした。こうして大きな親戚全体で僕を受け入れてくださり、とても大切にされている親戚同士の交流にも含めていただいて色々な世代の方に頻繁にお会いできたことも、とてもありがたいことでした。クリスマスや年末に親戚がとてもたくさん集まって一緒に食事をしたり、Helgardのご両親から戦時中のことを聞く機会もあれば、Elkeの娘さん夫婦がベビーカーを引いてマラソン大会に来てくださったりと、本当に家族の一員として受け入れてくださいました。
 YFUの帰国直前セミナーで出会ったチリ人のAugustin(アウグスティン)君のことも紹介しなければなりません。彼は、ドイツだけでなく僕のこれまでの人生で出会った同年代の人の中で、ずば抜けた知性を感じさせる人でした。ドイツ語はペラペラで、自由時間にニーチェを読みながら、将来は物理学者になりたいというのです。しかも、とても温厚な雰囲気でありながら南米人として歌と踊りが好きなのです。潔く「この人には敵わないかもな」と思わされてしまう、そんな人でした。
 また、これは旅行ではありませんが、2月にはホストファミリーのやむを得ない事情で、1週間ずつ別の2家族(どちらもHauskreisの友人)のところで生活したことがあります。家族というのはひとつの小さな社会の単位で、国単位でなくても文化の違いが存在しています。1年間で様々な家族の生活を体験したことも、いい経験になりました。そのうち一方の家族にはダウン症の男の子がいて、彼とはよく一緒に遊びました。もちろん危なっかしいこともたまにはあったのですが、押さえつけるような感覚になって接するのはお互いに不幸かもしれません。当たり前ですがそれは簡単ではなくて、僕は彼と遊んでいただけですが、それでも混乱することやどうしていいかわからなくなることがありました。とてもいいお父さんとお母さんがいて、彼はすごく幸せだと思います。

>次号へ続く(3月26日の掲載を予定しています。)

本連載はYFU第59期(2017年帰国)ドイツ派遣 佐原慈大さん が、帰国後に自身の体験を綴った体験記を纏めたものです。無許可での転載を禁止します。